デザイン読書補講 7コマ目『「カッコいい」とは何か』
こんにちはこんばんは、吉竹です。
この『デザイン読書補講』は「デザインを学び始めた人(主に学生)の世界を少しでもひろげられるような書籍をおすすめする」をコンセプトに連載しています。
わたしの自己紹介や、この連載が生まれた経緯は1コマ目『UX・情報設計から学ぶ計画づくりの道しるべ』で書いていますので「どういう人が書いているんだろう?」と気になった方は合わせて読んでみてください。
そういえば5コマの最後に執筆メンバーが1人増えますと予告したとおり、前回より帝京平成大学の中村先生をおむかえして2人体制となりました。
わたし自身もいち読者として中村先生のテキストを楽しく拝読しています。完全に余談ですが、連載タイトルを決めるときに「吉竹遼の」を枕詞につけたほうがリズムが出ていいな……と一瞬思ったのですが「それだと自分しか書けなくなる……!」とネタ出しに苦労して締め切りに追われる未来が容易に想像できたので取り下げたという裏話があります。よくやった自分。
今日の1冊
さて、デザイン読書補講 7コマ目にご紹介するのは、平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書)です。
日々の生活の中で「カッコいい!」と感じる場面は多々あると思います。好きなアーティストのライブに行ったり、マンガを読んだり映画を見ているときだったり、あるいはSNSで何かを表明している人を見かけたときだったり。
Twitterをやっている方であれば、こちらから、自分やフォローしている人がつぶやいた多岐にわたる「カッコいい」を観測できるはずです。
そしてこれを読んでいるみなさんはデザインを学び実践している方々でしょうから、きっと「このデザイン、カッコいいな」「カッコいいデザインをしたいな」と感じた経験も一度や二度ではないでしょう。
でも「カッコいい、ってなんだろうね?」と問われると、ほとんどの人はうまく答えられないのではないでしょうか。何をもって私たちは「カッコいい」と感じているのか。
「カッコいいとは、こういうことさ。」は映画『紅の豚』のキャッチコピーですが、「こういうこと」が具体的に何を指すかは曖昧ですし、出てくる言葉は観た人によって異なるはずです。それくらい「カッコいい」は具体性が見えづらく、共通言語化しづらい概念でもあります。
本書は「カッコいいの歴史」を紐解きながら、そのルーツや定義を探る1冊です。著者は小説家の平野啓一郎氏で、「小説以外では、この十年来、私が最も書きたかった本」と書かれているように熱量を感じる内容になっています。
扱うトピックや参考文献は多く、そのすべてをここで紹介しきるのは難しいため、まずは前提理解に必要なキーワードを共有した後、デザインについて述べられている5章『表面的か、実質的か』を中心に書き進めていきたいと思います。なお本書を読まれる際は、まとめに相当する10章と巻末特典の要約がわかりやすく構成されていますので、まずはそちらに目を通すのをおすすめします。
「カッコいい」は「しびれ」である
本書で語られるキーワードの中で特に注目したいのが、「カッコいい」の定義として挙げられた『「しびれる」という体感』です。文中でも
「カッコいい」存在とは、私たちに「しびれ」を体感させてくれる人や物である。
「しびれる」というのは、飢くまで一つの表現だが、とにかく、そんなような何かが、もし体を駆け巡らないならば、それは、人がどれほど崇めようと、自分にとっては、「カッコいい」対象ではないのである。
とあるように、重要なテーマとして本書の骨格を形成しています。
ではその「しびれ」とは何か、については「情動二要因理論」(スタンレー・シャクター、ジェローム・シンガー)や「経験する自己/物語る自己」(ユヴァル・ノア・ハラリ)などを引用した補足がされています。
おおまかに説明すると、「しびれた」「鳥肌が立った」という生理的反応が発生したとき、私たちはそれが起こった環境や状況を関連づけて認識する、というものです。例えば音楽を聴いてゾクッとしたのはその音楽を聴いたからだ、といった関連付けです。
個人的な経験だけをもとに話をすると、「しびれ」そのものが発生する要因は「自分が認識している概念の外からもたらされる刺激」が多くを占めている印象です。クラシック音楽だけを聴いて「音楽」が概念として形成されている人にとって、初めて耳にするジャズは「音楽は概念として知っているが、この音楽は知らない」と予想外の刺激に身体が反応する。ジャズを聴き慣れてくると今度は「音楽の1ジャンルとしてのジャズ」が形成され、そこから名プレイヤーの演奏だったり、新しい世代のジャズに触れることでまた反応が生まれる。逆に言うと「しびれ」を生む側には、新規性や独自性への探究心が求められるのかもしれません。
ただ、鳥肌が立つことと感情の結びつきはまだ解明されていないようです。ひょっとしたら今後の研究によって「鳥肌の立つ指標」のようなものが生まれるかもしれませんね。
『体感』も重要なワードとしてたびたび登場します。『体験』はデザインのプロセスにおいてよく語られる概念ですが、体感は体験の核であるとし、
もし「しびれる」ような〝体感〟が伴わないならば、どれほど〝体験〟があろうとも、参加者は絶対に満足しない。
と書かれているのには「なるほど」と膝を打ちました。デザイナー特有の視点になるかもしれませんが「サービスやプロダクトを通してこういった体験を届けたい」と考えて実施した時点では、提供できるのはあくまでもシチュエーション止まりなんですよね。実際に接した人がどう体感するかは、体験設計とはベクトルが異なる観点を持つ必要があるのだな、と発見がありました。
デザインと「カッコいい」
さて、ここまでが前提となる「カッコいい=しびれ」のお話でした。
「じゃあ、次はカッコいいデザインの作り方とか考え方を教えてくれるのかな」とワクワクされるかもしれませんが、実はそうではありません。本書で語られるのは「カッコよくデザインされたものを、我々は表層のカッコよさだけで利用していないだろうか?」というデザインの倫理性です。過去の連載でも、『悲劇的なデザイン』を引用してこんな一節を書きました。
自分(たち)の思想・意識に基づいた選択の集合体が誰かの生活に介入する事実をしっかり自覚する姿勢は、作り手に求められる素養のひとつだと自分は考えています。
本書では上記でいうところの「選択」の対象との向き合い方において、ナチスの制服や日本の対外宣伝グラフ誌『FRONT』を例に、より具体的に述べられています。
ナチスの制服と言われて記憶に新しいのは、2016年に欅坂46のメンバーがライブイベントで着た衣装が「ナチスの制服に酷似している」と国内外で報じられた件でしょう。
衣装をデザインされた方にどういった意図があったのか、あるいはなかったのかは知る由もないですが、注目すべきはその制服(またはエッセンス)が選ばれた理由がデザインであった点でしょう。
というのも、ナチスはデザインを重視したことでも知られているからです。詳細は松田行正氏の『RED ヒトラーのデザイン』(左右社、2017年)『独裁者のデザイン』(平凡社、2019年)に詳しいですが、ナチスのデザインはシンボルやポスター、制服に集会の演出など多岐にわたります。集会を例に挙げると
党大会をあそこまで祝祭空間にしてしまったのはナチスがはじめてだろう。例の挙手の嵐、カギ十字入りの旗の乱舞。ドラムの連打、ファンファーレ、あちこちから飛び交う「ハイル・ヒトラー!」の斉唱。視覚と聴覚が共に大きく揺さぶられた大会だった。
『RED ヒトラーのデザイン』p.49
と、刺激的な演出内容であったことが伺えます。ところで「視覚と聴覚が共に大きく揺さぶられ」る、の部分に既視感がないでしょうか。そう、先述した「生理的反応」です。集会ではマイクとラウドスピーカーによってヒトラーの声は集まった多くの人々に届き、夜であればサーチライトが光の柱を作り出したそうです。
『RED』でヒトラーが「クリエイティブ・ディレクターだ」と評されたのも納得です。だからこそ、「カッコよさ」だけで引用するには危ういのだとも感じます。
「そうは言っても、制服の見た目だけをカッコいいって言うのは別にいいんじゃない?」と思う方もいるかもしれません。ですが、デザインが持つ外観と内実の乖離こそがこの章の主題となっています。例えば
「カッコいい」存在は、これまで見てきた通り、「しびれる」ような興奮をもたらしてくれるが、その生理的反応自体に倫理性はない。
と「しびれ」の中立性に言及したうえで、外観だけを参照したはずが結果として元来あった意図や影響に取り込まれる危険性について述べられています。
「カッコ悪い」人間が、表面的な「カッコよさ」を通じて、実質的に「カッコいい」と認識されることを目指すように、ナチスの「カッコいい」制服は、ナチス自体を「カッコいい」と感じさせる危うさを常に孕んでいる。そもそも、それこそが「カッコいい」制服をデザインする意味だからである。
これはまさに「デザインの力」と言ってよいでしょう。同様の言及は舞踊の世界でもみられます。
観客はダンスが「同調圧力を内包する芸術」であることを見たあとでも、ユニゾンの群舞を本能的にカッコいいと思ってしまう。
ということは、同じく同調圧力を内包しているイデオロギーやカルト宗教でも、ユニゾンの群舞のようにカッコよければ受け入れてしまうだろう。
いま目の前のダンスを楽しんでいるあなたは、イデオロギーやカルトにはまる人と、本質的には変わらないのだ。
「カルトもダンスも、根っこではたいして違わないよ」と、下島は自分たちにも刃を突きつけているのである。
松田氏はデザインを「中立的」と書かれていますが、それゆえに扱う側の姿勢や思想が反映されやすいのだと改めて自覚させられます。
「デザイン」という言葉自体には、カラー(志向)がないので、よい意味も悪い意味もない。
(中略)
だが、デザインを活用する側の姿勢によって、「謀る」という意味も発生する。
(中略)
「デザイン」とは、一方で、人の心を奮わせ元気にし、他方で、魂胆を隠してきれいごとに見せつつ、人を傷つけることもできる。運用の仕方によって希望にも刃にもなる
『独裁者のデザイン』p.9
「カッコいい」「デザイン」。この二語から多くの方は作り方やスタイルの話を想像されたかもしれませんが、それと同じ、いやそれ以上に、内実に目を向けるのはどうやら大事そうだぞと思えてきたのではないでしょうか。
デザイナーはデザインの中継所
デザインに限らず、世に存在する表現や、もっと広く言えば人間の営みも過去からの連続によって成り立っています。ある日突然、誰も見たことがないデザインを生み出せる人はそういないでしょう。
私たちが過去のスタイルや技術を引用・再構築しながらデザインしているのは、言い換えるなら自身が「中継所」となって過去のデザインを現在に伝えているのだと考えられないでしょうか。しかしその判断基準が「カッコいい」だけでは不十分だろうというのは、先ほどの制服の件でも触れたとおりです。
では、そうならないために皆さんが実践できることは何か。
まずは素直に、自分が感じた「カッコいい」を起点に深堀りしてみるのがおすすめです。「なんでカッコいいと感じたんだろう」「この『カッコいい』に名前はついてるのかな」「この『カッコいい』はどうやって生まれたんだろう」……問いを重ねながら調べていくうちに、うまくいけばルーツを辿れるようになります。
この「うまくいけば」というのがミソで、どういうことかというと「調べたいのにそもそも調べるためのワードを知らない」というジレンマが発生しがちなのです。
なので、諸デザインの歴史がまとまっている本にも、合わせて目を通すのがよいでしょう。一例ですが
・『近代から現代までのデザイン史入門』(トーマス・ハウフェ著、藪亨訳/2007年、晃洋書房)
・『絵ときデザイン史』(石川マサル、フレア著/2015年、エムディエヌコーポレーション)
・『グラフィック・デザイン究極のリファレンス』(ゴメス=パラシオ・ブライオニー、ヴィト・アーミン著、和田侑子訳/2010年、グラフィック社)
などは工業デザインやグラフィックデザインの歴史を概観できます。ただ、ここで言う歴史とはあくまで「存在を知る」くらいの意味合いになるので、より深く知るには別個で書かれている本を読む、展示会に足を運ぶ、などの必要はあります。その過程でさまざまな概念、様式、人や本の名前などを知れるでしょう。
歴史から学ぶと言われるとシリアス一辺倒のように思われるかもしれませんが、その過程で身についた知識や経験は必ず未来に活きてきます。過去のデザインを学ぶ中で新しい「カッコいい」に出会えるかもしれないし、自身がデザインする際の引き出しが増えると発想の幅も拡がるからです。
もうひとつは過去ではなく「いま」に目を向けること。なぜなら「カッコいい」は不動ではなく、時代とともに変わる概念でもあるからです。例えば「美白」表現は主に広告分野におけるひとつの価値基準でしたが、現在では取りやめる動きが出ています。
これは「カッコいい」に限らない話で、特にステレオタイプな価値観は時代とともにアップデートが進んでいます。もう男の子=青色/女の子=ピンク色ではないですし、フランスでは2017年に商業写真でモデルの体型を画像加工した際に明記する法律が施行されました。
デザインが社会と強い関係性がある以上、デザイナーは中継所として自分(たち)が手掛けたデザインが社会に対してどう作用するか考えて判断する責務が発生し、そのために過去を学び、いまを知る姿勢が必要だと自分は考えています。
JAGDAが和訳して公開しているICoD(国際デザイン協議会)の「デザイナーの職能規範」にはこんな言葉があります。
デザインが社会や地球に及ぼす影響は、往々にして特定の製品やメッセージの意図や到達範囲をはるかに超えます。注目に値するデザインは価値を創出しますが、思慮の浅いデザインは損害を引き起こします。デザイナーは自らの責任を軽く考えてはなりません。
デザイン(衣服、空間、物体、メディアなど)は、意図的か否かにかかわらず意味を持つため、デザインが体現する価値がどこかの社会層に悪影響を及ぼすことがあってはなりません。
今回のような話をいきなり全部理解してほしいとは思いません。ですが、もしみなさんがデザインを扱う仕事を目指しているのなら、少しずつで大丈夫なのでこういう面もあるのだと意識を向けてくれたら嬉しいですし、理解につながる手助けをこの連載や講義をとおしてできたらと思っています。自分もまだまだ、勉強中の身なので……
それでは今日の読書補講はこのあたりでおしまいにしたいと思います。どうもありがとうございました。
[文]吉竹遼
フェンリル株式会社にてスマートフォンアプリの企画・UIデザインに従事後、STANDARDへ参画。UIデザインを中心に、新規事業の立ち上げ・既存事業の改善などを支援。2018年に よりデザイン として独立後、THE GUILDにパートナーとして参画。近著に『はじめてのUIデザイン 改訂版』(共著)など。東洋美術学校 非常勤講師。