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デザイン読書補講 13コマ目『評伝 フィリップ・ジョンソン 20世紀建築の黒幕』

こんにちは。中村として5回目のデザイン読書補講です。前回、柳宗理さんに触れながら、その生没年が20世紀をほぼそのまま飲み込むかたちゆえ、個人史と20世紀史、そして近代デザイン史が重なる凄みのようなものをおぼえました。そうしたなか、ふと、より強力に20世紀史と結びついている人物を思いだしたのです。

フィリップ・ジョンソン。1906年に生まれ、2005年に98歳で没した建築家。ふと、いまなにげなく建築家という肩書きをならべましたが、もしかするとそれ以前の肩書きでもあったキュレーターという表現もまた、その生涯を象徴するには適切かもしれません。近代から現代の建築界を代表する人物といえば──フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビジュエ、ヴォルター・グロピウス、マルセル・ブロイヤー……と初期の面々に、I.M.ペイ、シーザー・ペリ、マイケル・グレイヴス、ピーター・アイゼンマン、レム・コールハース、ザハ・ハディド、フランク・O・ゲーリー、そして磯崎新……といった20世紀後半のスターたちが浮かぶでしょう。

あるいは現代美術家であれば──ジャスパー・ジョーンズにアンディ・ウォーホル、フランク・ステラ、デイヴィッド・ホックニー……などが最初にあがるでしょう。現在の日本に暮らす若い世代にとって、そうした面々に比較すればフィリップ・ジョンソンの名前はすこし後にでてくる存在かもしれません。しかし、そのみなが多かれ少なかれ、彼の手の上で踊らされたことがある……となるとどうでしょう?──20世紀を象徴する建築家であり、キュレーター。そしてなにより最大のフィクサーであった人物 フィリップ・ジョンソン。2022年のいま、彼をいかに読むことができるでしょうか?

建築批評家 マーク・ラムスターによる『The Man in the Glass Hhouse: Philip Johnson, Architect of the Modern Century』が発刊され、全米批評家協会賞最終選考にノミネートされたのは、ジョンソンの死後から13年が過ぎた2018年のこと。2020年には松井健太氏の翻訳、横手義洋氏の監修で『評伝 フィリップ・ジョンソン 20世紀建築の黒幕』(左右社)として日本語版が刊行されています。600ページ近いマッシブな本。それは単にジョンソンが長生きした……というばかりでなく、その人生が20世紀史とそのまま重なり、登場人物の多くが最重要人物であり、モダンデザインの登場から成熟、そしてそこからの乖離というモードチェンジという変遷が追えること。さらには20世紀のなか超大国となるアメリカの中心であり、象徴でもあるニューヨークを舞台としている……というように、こうして書きおこしながらもめまいをおぼえるほどの密度があります。

それは時間と共に物事のすべてが進化する──あるいはしなければならない──という近代のもつ、ある種の脅迫的なイメージともそのまま重なり、ジョンソン自身と20世紀が同一化している感覚をみてしまいます。そしてそれは思い込みでもなんでもなく、少なくとも建築史においては疑いのない事実なのです。

ジョンソンの人生の密度、そして実力者でありトリックスターでもある、その性格に幻惑され、おもわず前置きが長くなりました。今回はマーク・ラムスター著、松井健太 翻訳、横手義洋 監修『評伝 フィリップ・ジョンソン 20世紀建築の黒幕』(左右社)をテーマにデザイン読書補講をおこないます。前述の通りかなりのボリュームをもつ内容に、読む前から思わず圧倒されてしまいますが、伝記映画をみるような感覚もあり、そこに浸りつつみてゆきましょう。

極端な人生

フィリップ・ジョンソンは1906年オハイオ州生まれ。ハーヴァード大学には哲学専攻で入学しました。しかしこの頃、父親から譲り受けたアルミメーカーの株が大高騰、途端に世界的資産家の仲間入りをします。高級車を乗り回す贅沢極まりないヨーロッパ遊学を経て1930年には美術学士として卒業。7年間におよぶ学生生活となりました。

その後、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に所属。1932年には新進気鋭のキュレーターとして近代建築展を企画開催。グロピウスにコルビジュエ、ミースといったヨーロッパの近代建築家とその仕事をアメリカに紹介しました。それから政治活動に傾倒したかとおもえば、1940年にハーヴァード大学に復学、マルセル・ブロイヤーやヴァルター・グロピウスのもとで建築を専攻。ここでは潤沢な資産にものをいわせ、下宿を自身で設計し、そこに住まいながら教授陣を招いてのパーティや、同僚である学生の講評会を開くなど、まさに規格外の学生生活を過ごしています。

1946年にMoMAに復帰したものの、1949年には、代表作となる自邸ガラスの家(GLASS HOUSE)を発表。センセーショナルな建築家デビューをしたのは43歳のときでした。遅いスタートとなりましたが、一気に建築界の先頭集団、そのトップに悠然とおさまってしまいます。以降、建築界のペースメーカー、そして現代美術の優秀なパトロンという両翼の立場を留めながら、98歳で大往生──まるでマンガか小説、映画のようにフィリップ・ジョンソンの人生はきわめて極端です。また、ジョンソン自身も主人公気質というか常々、万能感に満ちた人。それゆえ、本書はフィクションのような感覚さえおぼえますが、いずれも事実であり、モダンデザインの受容を理解するうえで貴重な記録となっています。

フィリップ・ジョンソン『ガラスの家』(GLASS HOUSE, 1949)

誰が「採用」するのか?

さながら映画のような本書。ここでその膨大なシーンをひとつひとつ読み進める訳にもいかないので、重要な場面をひとつ選出することにしましょう。とはいえ「どこを抽出するか?」それもまた悩ましいものです。

諸先輩と(時にスキャンダラスな)関係を持ちながら上昇してゆく若かりし頃。モダンデザイン建築家として成功したのちの「宗派替え」といえる、歴史様式引用とポストモダニズムのはじまり。ドナルド・トランプとともにアメリカの都市風景を自身の作品でデザインせんとした、強欲なビジネスマンとしての時代。あるいは世界各国の有名建築家たちをさも自分の弟子のように集め、自身の設計したフォーシーズンズのレストランを舞台に建築議論をする長老の姿。老いてなお迎えた脱構築主義へのモードチェンジ──それから、ニューケイナンでの普請道楽のみに着目してもいいかもしれないし、現代美術のパトロンであった側面を追うだけでも充分おもしろく、歴代の交際相手だけでもストーリーは編めてします──そして、デビュー作たるガラスの家で迎えた静かな死……いずれもあまりに魅力的です。

しかしこれはあくまでデザイン読書補講。そこにおいて重要なのは、おそらく1930年代から1960年までの30年間ではないでしょうか。モダンデザインはいかにして時代の標準となったのでしょうか。時計の針を1930年代に戻してみましょう。

ジョンソンは1932年の近代建築展以前にも、「落選建築家」と題した展示を企画開催しています。当時のアメリカには近代建築は根付いておらず、保守的な建築家連盟から門前払いをされていたのでした。それを逆手に取ったこの展示企画は、古典的な建築を中心としていたニューヨーク建築リーグ、その50周年を記念した展示会と同時期に、すぐそばの会場で開催されました。さらに「落選建築家」展陣営は宣伝看板をさげ、ふたつの会場周辺を練り歩くという好戦的なプロモーションをおこなっています。

さらにはロックフェラー家に支援を申し出るため接触しつつ、『住まうために建てる』と題した近代建築を紹介する冊子を作成、こうした活動の資金調達が見込めそうなところに送るという行動をしています。ここでジョンソンは19世紀の技術革新をふまえ、建築物は石やレンガではなくスティールの柱とガラスの壁にとって代わられると明言しています。近代建築の見本市となったベルリン建築展では、ニューヨークタイムズ紙に長大なレビューを寄せています。

そうして迎えた1932年、近代建築展にあわせヘンリー・ラッセル・ヒッチコックとの共著『インターナショナル・スタイル』を刊行、展示では建築模型と大判の竣工写真が陳列されています。当時としては先進的なメディアであった雑誌や新聞、そして展示を活用しながら、モダニズムのためのアジテーションとプレゼンテーションをおこなったのです。もちろん、そこにはジョンソンによる周到な編纂がしっかりとおこなわれています。

モダニズムの性質と差異

さて本書を読みすすめながら、あらためて納得したことのひとつはフィリップ・ジョンソンがモダニストの特性を初期段階で正確に嗅ぎ分けていたことです。モダニストには、ふたつの系譜があります。まずは機能性・社会性をもった合理的なもの。それからミニマルアート的・抽象芸術的な表現、美学を持つもの。前者の代表格がヴァルター・グロピウスであり、後者がミース・ファン・デル・ローエ、あるいはル・コルビジュエとなるでしょう(おそらくフランク・ロイド・ライトやアドルフ・ロースもこちら側といえるはず)

バウハウスにおけるグロピウスの立ち位置、そのバウハウスの継承を当初の目的としたウルム造形大学におけるオトル・アイヒャーとマックス・ビルの対立もまた、このあたりが要因となっているのではないでしょうか。確かにミースの建築物は手工芸的ともいえる過剰なまでの精緻さがあり、グロピウスの場合は工業製品的であり、ミースなどに比較すれば、正直いくばくか未洗練なところもあります。しかしそれは彼らなりのシステマティックな視点でみれば、正解でもあるのです。それはエミール・ルーダーらによるバーゼルスタイルと、ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンらのチューリッヒスタイルの違いにも直結します。これは建築に限らずモダンデザインすべてに通底する課題なのでしょう。

ミース・ファン・デル・ローエ『ファンズワース邸』(Farnsworth House, 1951)|Atelier FLIR/CC BY2.0

さて、フィリップ・ジョンソン。幼少時より美術好きの母から英才教育をうけ、MoMAのキュレーターとして世にでた人物ゆえ、後者側の性格がやはり強いようにみえます。その最初期の大仕事であった近代建築展と、その後のミース展、初の本格的な実作となったガラスの家。これらにみるミースへの入れ込み。そこから手の平を返すように表現主義的なポストモダン、そして脱構築主義への傾倒。こうした極端な変遷を軽々と実現したのは、あくまでも建築・デザインを、造形物として捉えていたゆえでしょうか。モードとルッキズムの極みのような印象さえあります。

ジョンソンの仕事はいずれのスタイル、時代であれモニュメンタルな性格が強く、合理性の視点でみれば希薄にもおもえます。かつて建築批評家 長谷川堯は主著『神殿か獄舎か』において、近代建築の様式をオス / メスと区別しました。合理的でミニマルなものを、オス。表現主義的なるものをメスとしたもの。しかしここでオス的とされたものもつぶさにみれば、こうして工業的なるものと、手工芸的なるもの、あるいは鑑賞の対象たる美術的なものにわかれてきます。そして、ジョンソンの場合、そのいずれも包括する両性具有なる存在なのかもしれません。

意匠と構造

ジョンソンは頻繁にモードチェンジしたとはいえ、根底的な変化はゆるやかです。彼の仕事に限らず、ポストモダニズムも脱構築主義も結局のところ、基本的にはコンクリートにガラス、金属といった素材によりつくられ、それは広義のモダンデザインの範疇を過ぎません。またドラフターや製図機であれCADであれ、その設計に用いられるツールもまた、近代デザインにおける道具の範囲にあります。ジョンソンの仕事を通史的にみれば基礎構造の変化と意匠の変化は別物であり、近代に通底するモダニズム様式の巨大さを再認識してしまいます。はたしてジョンソンはそれを超えられなかったのでしょうか、それとも超える必要がないものとわかりきってモードチェンジを繰り返したのでしょうか──そのデビュー作たるガラスの家が、住宅としての最低限の要素で構築されていること。彼がそこからはじまったこと、そしてそこで生涯をおえた事実に、なにか深読みをしてみたくもなります。なぜなら、彼はずっとそこにいたのだから。

ある特定の領域における20世紀史──本書の場合、おもにはモダニズム建築──が、個人史と重なるところは、どこかでマイルス・ディヴィスの自叙伝を想起します。ともに資産家の出自であること、モードの変化にあわせ公私ともども人付き合いがはげしくかわること、登場人物それぞれが最重要人物であること、そのうえでめまいさえおぼえる極端なエピソードがつづくことなど、いずれも大作映画をみているような感覚になる。そうしたところも、また似ています。

壮大な本書を読みつつ足元を救われまい……と今回、僕が参考にしたのは、『芸術新潮』2009年6月号「中村好文さんと訪ねる 建築家の究極のすまい フィリップ・ジョンソン邸に行こう」(新潮社)と、菊地成孔さんと大谷能生さんによる東京大学講義録『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』(河出書房新社)であったことも、文末に記しておきます。

第二次大戦後、世界を掌握し、その価値の中心に腰をすえるアメリカ合衆国。それと歩調をあわせるように世界各国に定着したモダニズムのデザイン。そのフィクサーたる人物の個人史から神話の形成過程を追うのも、またおもしろいものです。 

さて今回は、『評伝 フィリップ・ジョンソン 20世紀建築の黒幕』をよみながら、モダンデザインの定着がいかにしてなされたか、そしてそこにおけるモードと構造の関係についての一端を考えてみました。デザインを志すみなさんのヒントになれば幸いです。それでは次回もまた、よろしくお願いします。

中村将大(なかむら・まさひろ)
帝京平成大学 助教 / デザイン教育 / デザイン
おもにヴィジュアル・コミュニケーションを中心としたデザイン教育・デザインに携わる。1983年 福岡うまれ。武蔵野美術大学卒業。面出薫氏に師事。朗文堂 新宿私塾 修了。東洋美術学校 デザイン研究室をへて2021年より現職。


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