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長谷川踏太──「退屈」を嫌う、あるクリエイティブ・ディレクターの半生

「デザイン」の領域が拡張し続ける昨今、デザイナーとして明確なキャリア展望を描くことが、どんどん難しくなっている。それでも、「刺激的な仕事を手がけていきたい」と思うデザイナーは少なくないだろう。エキサイティングな場所に身を置き続けるためには、いかなる思考でキャリアを築いてゆけばいいのだろうか。

この問いについてヒントを得るべく、カジュアルギフトサービスを運営するギフティのCCO(Chief Creative Officer)、長谷川踏太氏をたずねた。

長谷川氏は、暦本純一率いるソニーCSLインタラクションラボで最先端技術にふんだんに触れ、世界のクリエイティブシーンを牽引してきたロンドンのクリエイティブ集団TOMATOで唯一の日本人メンバーとなり、さらにはナイキをはじめグローバル企業の案件を多数手がけるWieden+Kennedy Tokyoでエグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクターまで務めた経歴の持ち主だ。現在は新たなフィールドとして、国内ITベンチャーの“中の人”として、企業ブランドのデザインに取り組む。

テクノロジー、アート、ビジネス……最先端の領域を横断しながら、「デザイン」の可能性を追究し続けてきた長谷川氏。その半生をたどると、計画的に選んだ道はほとんどないことが見えてくる。根幹にあったのは、「退屈したくない」というピュアな衝動だった──。

長谷川 踏太(はせがわ とうた)
株式会社ギフティ Chief Creative Officer
1972年東京生まれ。1997年英国ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)修士課程修了。その後、ソニー株式会社デザインセンター、ソニーCSLインタラクションラボ勤務などを経て、2000年ロンドンに本拠を置くクリエイティブ集団TOMATOに所属。インタラクティブ広告から創作落語まで、そのアウトプットは多岐にわたる。2011年から2019年9月までワイデン+ケネディトウキョウのエグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクターを務める。英国D&AD審査員、東京TDC審査員, creativity50 (byAdage 2015) に選出。

映画監督を志して渡英、思いがけず出会った“魔法の箱”

1972年、東京都に生まれた長谷川氏。親は美大卒で、雑貨店を営んでいたという。その店にはアート業界の関係者が集まっており、長谷川氏は自然と、映画や音楽に囲まれた幼少期を送ることになる。中高時代には、ヨーロッパ映画に傾倒。映画監督を志し、高校卒業と同時に、イギリスへ留学した。

コンピュータに出会ったのはこの頃だ。時は90年代初頭、パーソナルコンピュータが人口に膾炙するようになる前夜。長谷川氏が映画を学んでいた大学にも、Macintoshが導入される。Macintoshでプログラミングすれば、自分一人で好きなものが作れる──「映画はチームで作るもの」という常識を覆すコンピュータは、長谷川氏に大きな衝撃を与えた。

長谷川「それまでは、学校に3〜4台しかないフィルムカメラを、みんなで使いまわして映画を撮るのが当たり前でした。すると、どうしても『強いやつが監督、弱いやつはライティング』といった役割分担になってしまう。日本人というマイノリティで、英語ネイティブではなかった僕は、『弱いやつ』の立場に寄ってしまうことが多かった。だからこそ、コンピュータは大きな光明に思えました」

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コンピュータに可能性を感じた長谷川氏は、独学でプログラミングを習得し、卒業制作にも活用。卒業後は、ロンドンの国立美術大学であるロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)の修士課程に進学し、インタラクションデザインを学んだ。その頃にはすでに、長谷川氏の関心は、映画から「コンピュータそのもの」へと移っていた。

長谷川「『遊ぶもの』だったゲームが、自分で作れるようになった。『初めから終わりまで受動的に観るもの』だった映画が、観客の選択に応じて分岐するストーリーを作れるようになったりと、インタラクティブなものになった。コンピューターによって、作れるものの可能性が、大きくひらかれていく感覚がありました」

コンピュータは、業界の“歴史”が希薄であった点も、心地よかったという。映画監督になるためには、技術を磨くのみならず、人間関係にまつわる政治的なコミュニケーションも経ながら、多くの決められたステップを踏む必要があった。

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RCAの最初の課題で制作したアイロンでナビゲーションするサウンドゲーム (1996) RCA

しかし、当時のコンピュータ業界は黎明期ゆえ、人間関係のしがらみや、ものづくりの決まりごとがなかったのだ。一定規模の予算をかけ、Web制作会社がサイトデザインからCMSへの流し込みまで細かくフローを構築するといった手法は一切取られておらず、「各々が勝手に、手作りの犬小屋を建てているような感覚でした」

すっかりコンピュータの魅力に取り憑かれた長谷川氏は、インタラクティブなグラフィックの制作やインターフェースデザインの勉強に取り組みながら、RCAでの2年間を過ごした。長谷川氏のデザイナーとしてのキャリアの原点は、コンピュータという“魔法の箱”によるものづくりにあったのだ。

暦本純一のもとで「最新テクノロジーをあらかた見てしまった」

RCA卒業後、長谷川氏の同期の多くは、IDEOやAppleなどに就職していった。そんな中、長谷川氏がファーストキャリアとして選んだのは、意外にも日本企業のソニーだ。

きっかけは、修士1年生のとき。RCAの決まりで、夏季休暇中に、何かしらのインターンシップに参加しなければならなかった。久しぶりに日本に帰国しようと考えていた長谷川氏は、日本企業のインターンシップ先を探すことに。そこで候補に挙がったのが、グラフィックデザイナーにして計算機科学者、作家でもあるジョン・マエダ氏と手を組み、実験的なプロジェクトを手がけていたソニーだった。

ジョン・マエダ氏といえば、アメリカ最高レベルの美大であるロードアイランド・スクール・オブ・デザインの学長、メディアとテクノロジーの研究機関として世界最高峰であるMITメディアラボの副所長を歴任した、「デザインとテクノロジーの融合」を実践するグローバルな第一人者と言っても過言ではない人物だ。

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長谷川「当時からソニーはいまで言うサウンドスケープのような、空間を出歩くと場所によって音が変わったり、グラフィックが音に反応して動いたりするエキシビジョンを手がけていたんです。『面白いことをやっているな』と興味を持ち、メールを送って面接してもらいました。そのとき見せた作品集がお気に召したのか、受け入れてもらえることになったのですが、当時はまだ『インターンシップ』という概念さえなく。『インターンシップには給料を払うものなのか?』と聞かれて、『いや、交通費だけで大丈夫です』といったやり取りをしたことを覚えています(笑)」

インターンシップを経験すると、「最新技術が詰まっているソニーなら、面白いことができるのではないか」という想いが強まった。夏季休暇が終わってRCAに戻った後も、気持ちは変わらず、卒業後はソニーに就職。入社後はデザイン部門であるクリエイティブセンターを経て、ソニーCSLインタラクションラボ(以下、CSLI)に移籍した。

CSLIでは、現在は東京大学大学院情報学環教授で、落合陽一氏をはじめ多くの研究者・クリエイターを弟子に持つことでも有名な、情報工学者・暦本純一氏のチームに所属。長谷川氏はデザイナーとして、最新技術を活用したプロダクトのデモ制作に従事した。

長谷川「2020年現在、『最新技術』と呼ばれているような技術ですら、すでに研究開発の対象となっていました。当時はペットロボットの『aibo』が発売されはじめた頃ですが、CSLIではすでに、QRコードや、AR技術を活用した3次元バーコードが開発されていましたね。一線級の研究者が集うCSLIで、新しい技術をあらかた見てしまった感覚があります」

最先端のテクノロジー領域において、デザイナーとしてのキャリアをスタートした長谷川氏。一方で、「テクノロジーに乗っかりすぎるのは、クリエイターとしてまずいのではないか」という課題感も抱くようになる。領域をガラリと変える意欲が湧きつつあった頃、長谷川氏のもとに転機が訪れる──ロンドンのクリエイティブ集団TOMATOからのオファーだ。

ロンドンのクリエイティブ集団から、グローバル広告代理店へ

1991年に設立されたTOMATOは、音楽や映像、グラフィックにプロダクトデザインまで、あらゆるかたちの作品を世に送り出し、世界のクリエイティブシーンを牽引してきた。長谷川氏は、大学時代の友人が所属していた縁で、ソニー在籍時よりTOMATOにプロジェクトベースで関わるようになる。TOMATOが日本でのプロジェクトに力を入れ出したタイミングで長谷川氏に声がかかり、2000年にはソニーを退職。唯一の日本人メンバーとしてTOMATOへジョインした。

長谷川「CSLIが手がけるプロジェクトは、数十年スパンで社会実装を進めていくものが大半でした。最新技術に触れられるのは刺激的だったものの、研究者肌ではない僕にとっては、世の中との接点を感じづらい点が物足りなくもあった。一方でTOMATOは、すぐ世の中に出せて、フィードバックを得られるものを作っており、より肌に合っている感覚があったんです」

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tomato group shot 2000

TOMATOでは、インターネット広告やコーポレートアイデンティティ、さらには音楽やファッションまで、さまざまな領域でインタラクティブな作品制作に携わった。日本企業に対しても、テレビ朝日のロゴ制作、パナソニックの携帯電話のUI設計、NTTドコモの「iモード」のサービス開発といったプロジェクトで、動画、ゲーム、プロダクトデザインなどに幅広く取り組んだという。

クリエイティブ業界を牽引する組織で、デザイナーとしてのクリエイティビティを存分に発揮した長谷川氏。約11年間の活動を経た2011年、さらに新たな領域に足を踏み出す──それは意外にも、デザイナーとしてのキャリアの王道ともいえる「広告」だった。

ナイキの広告を手がけていることでも著名なグローバル広告代理店、Wieden+Kennedy(以下、W+K)から、日本支部「Wieden+Kennedy Tokyo(以下、W+K東京)」におけるエグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクターのオファーを受けたのだ。「広告に興味はなかった」というが、時代の変化に伴う広告フォーマットの変容、大規模なチームでの活動への興味から、オファーを承諾した。

W+K東京では、主にGoogle、ナイキ、Hulu、Spotify、Airbnb、Booking.comといった外資グローバル企業の日本進出を支援。その内実は、「広告代理店」のイメージとはかけ離れたものだったという。

長谷川「W+Kは、“広告っぽい”広告が嫌いな人ばかり集まっている会社です。創業者のダン・ワイデンさんも、広告が嫌いだと言っていました。ですから僕も、『広告はコミュニケーション手段の一つにすぎない』というスタンスを取っていました。アウトプット自体はキャンペーンやテレビCMであっても、『買わせる』ことよりも、、そのブランドを『好きになってもらう』を目的としたプロジェクトが多かったですね」

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長谷川氏が手がけた、眼鏡ブランド 『Type

テクノロジー、アート、ビジネス……ジャンルを渡り歩く長谷川氏の“次なる挑戦”

ここまでの長谷川氏のキャリアを、あえて誤解を恐れずにたとえるなら、テクノロジー寄りのソニー、アート寄りのTOMATO、ブランド寄りのW+K 東京と軽やかにジャンルを横断しながら、デザイナーとしての実績を積み重ねてきたといえる。しかし、長谷川氏の飽くなき探究心は、とどまるところを知らない──次なる挑戦は、国内のITベンチャーにおける、企業ブランドのデザインだ。

2019年9月、長谷川氏は新たなチャレンジを求めて、約8年間働いたW+K 東京を辞する。退職エントリーを見て連絡した一人が、ギフティ代表取締役の太田睦氏だった。

「デザインやクリエイティブの観点からものを言える人がいないので、力を貸してくれませんか」。それが太田氏の相談だった。ギフティは2019年9月に東証マザーズに上場したばかり。(その後、2020年12月に東証一部に市場変更)長谷川氏が初めてオフィスを訪れた際、たくさんの胡蝶蘭が飾られていたという。社員数が100名を超えようとするそのタイミングで、クリエイティブ部門の組織化を企図しており、主導するメンバーが必要だったのだ。

長谷川氏はギフティを認知こそしていたものの、上場を含め最新動向をウォッチしていたわけではなく、市場における立ち位置も把握していなかった。それでもジョインを決めた理由は、“縁”だ。

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長谷川「W+K 東京時代の同僚に、ギフティの立ち上げに関わっていたメンバーがいたり、ギフティの創業初期に在籍していたデザイナーが、W+K東京のコーポレートサイトをデザインした人でもあったり……不思議なご縁を感じたんです。当時は、そもそも広告代理店とは別領域で、規模が大きすぎず、責任範囲を広く持てる環境を探していたので、その観点でもギフティはマッチしました」

デザイナーが挑戦する環境として、ベンチャー業界が魅力的に映っていた点も大きかった。

2000年前後は、デザインに力を入れている企業といえば、ソニーのような体力のある大企業が中心だったという。しかし昨今は、そうした熱源はベンチャー企業にある。「広告代理店として大企業を支援するかたちでは、いくらクライアントに熱意があっても、意思決定権や得られる情報に限界がある」。そう感じていた長谷川氏にとって、ベンチャー企業の“中の人”としてデザインに取り組むことは、魅力的な選択肢だったのだ。

長谷川「せっかく現場レイヤーの方と時間をかけて準備したものでも、意思決定の階層が上の人たちの承認が得られず、うやむやになってしまうことも少なくありませんでした。またブランドを理解するにも、数時間ヒアリングしただけでは断片的で、深みのあるものは得られない。その点、ベンチャーに入れば、明瞭なビジョンを描いている経営陣の直下で、内部の人間として深みのある情報を得ながら、腰を据えてブランドを作れると思いました」

ブランドデザインとは、働く個々人の幸福感を高めること

2019年12月、CCO(Chief Creative Officer)としてギフティにジョインした長谷川氏。コーポレートや各サービスのブランディング、またクリエイティブ組織のチームビルディングなど、ブランドデザインを一手に担っている。

「なんか、ギフティっていいんだよなー」。あらゆるステークホルダーにそう思ってもらえるブランド作りが、長谷川氏のミッションだ。

取り組みは多岐にわたる。ギフティのブランドの定義にはじまり、デザインやコピーライティングのガイドライン作成。加えて、日々生まれていく新たなプロダクトのロゴ制作やサービス名の策定、さらにはUIやバナーのデザインまで、社内のデザイナーや外部のパートナーと一緒に「ブランド作り」に取り組んでいる。

コロナ禍では、緊急でリリースしたプロダクトのデザインもチームと手がけた。自身のロールに明確な線引きはせず、「手がけているプロダクトや資料など、“なんとなくいい感じにしたい”と思った人は相談に来てください、というスタンスを取っています」と語る。

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社外向けのアウトプットの磨き込みだけでなく、ギフティのメンバー向けの取り組みにも積極的に取り組んでいる。

長谷川「社内の至るところにブランドのエクイティを浸透させ、働く意味を感じられる楽しい会社にすることも僕の役割だと思っています。言い換えるなら、自社に対するロイヤリティをブランドを通して高めること。事業戦略を描いてグロースに向かっていくことも大切ですが、どれだけ儲かっていても共感できなければ嫌になってしまう。個人の幸福感と会社の未来とをつなげるのも、ブランドの役割だと思うんです」

直近では2020年10月に発表した、コーポレート・ミッションとステートメント、タグラインの刷新を主導。事業領域をeギフトの外へと拡大していく中で、「ギフティらしさ」をよりクリアに定義し、表現することを意図した。

長谷川「W+K東京で外部からやっていたことと、本質は同じです。ボードメンバーに聞き込みをしたり、日々一緒に働いている人と話をしたりしながら、僕が感じた『らしさ』を言語化していく。『らしさ』は外部向けであると同時に、内部向けでもあります。どんどん人が増えていく中で、新しく入ってきた人が、たとえば親御さんに説明するときにパッと表現できるようにしたいし、新サービスを考えるときの指針にもしたい」

中の人なら、“ブランドらしさ”を生で体感できる

ギフティに入社して1年、“中の人”としてブランド作りを手がけることに、たしかな手応えを感じている長谷川氏。まず期待していたとおり、クライアント企業の広報部やコーポレートブランド部の人と、限られた時間しかコミュニケーションが取れなかった広告代理店の頃とは「情報の深みがぜんぜん違う」という。

長谷川「ブランドらしさを生で体感できるのは、内部ならではですよね。外部から『ブランドについてインタビューします』とヒアリングするかたちだと、どうしてもインタビュイーが身構えてしまい、本音を話してもらいづらい。日々働いている人を後ろから見ることで得られる情報とは、質がまったく違うんですよ」

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ゴールへ柔軟かつ一直線に向かっていけるのも、内製の強みだ。

長谷川「外部からの関わりだと、フィーをいただかなければいけないため、時間と予算とのバランスをみながら、何かしらわかりやすいアウトプットを用意しなければいけない。ですが、本当は必ずしも形にする必要もなければ、ドラスティックな変化でなくてもいいはずです。

それが、内部からであれば、ちょっとずつ変えていくことができる。ドーンと成果物を出さなくても、『この椅子を変えましょう』というように少しずつ変化を加えられますし、わかりやすく目を引くアウトプットでなくとも、業務の合間に見やすいドキュメントファイルのガイドラインを作るなどもできます」

プロジェクトを推進していくうえでも、内部からのほうが断然、エグゼキューションがスムーズだと語る。

長谷川「ブランドの方向性を決めるとき、企業内のコミュニケーション齟齬が原因で、ものごとが進まないことはよくあります。外部からの関わりだと、『このプロジェクトが進まないのは、クライアントのこの部門とこの部門が話していないからだ』とわかった場合でも、なかなか口は挟めません。でも、内部の人間としてなら、『ここで話して決めてください』とサクッと言えますから」

デザインも経営も、それ自体にこだわりはない

テクノロジー、アート、ビジネスと、時代と共に身を置く環境を変え、「デザイン」の領域を拡張し続ける長谷川氏。デザイナー・長谷川踏太は、これからどこへ向かうのだろうか。キャリアの展望を聞くと、長谷川氏は言葉に詰まった。

長谷川「うーん……キャリアの展望って、考えたことがないんですよね。ただ、『退屈じゃなければいいな』とは思っています。退屈なのは、嫌なんですよ。僕は自分がそのとき興味を持っていることをできる環境に身を置くことが第一なので、経営がしたいとか、デザインだけやっていたいとか、そういった軸はありません」

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長谷川氏はさらに、キャリアに悩むデザイナーへのメッセージも込めながら言葉を続ける。

長谷川「一つのことをやり遂げる人にも憧れますが、本当に面白そうなことだけをやる、面白くなかったらやめるのも、一つのスタイルとしてありなのではないでしょうか。最近は、パラレルで色々なことを手がけることも許される時代になってきていますしね。ソニーにいたときは、みんなが帰った後の夜中の2時に会社のプリンターでコソコソと出力したりしていましたが(笑)、いまはそんなことをする必要もありませんから」

「退屈を避ける」ため、「あまり新しいインプットが入ってこないな」と感じたタイミングで、次の挑戦へと踏み出してきたという。

長谷川「一通りやらせてもらって、『これ前の繰り返しだな』『またこのパターンか』と思うことが増えたら、次のキャリアを考えるようにしています。僕はあまり自分に厳しくなく、環境に適応すると、ゆったりしてしまうタイプの人間なんです。高校卒業後にいきなり留学しようと思ったときから、外的要因を無理矢理にでも変えることで、自分を活性化させておくスタイルは変わっていません。ですから、キャリアを変えたときは毎回、周りの人に驚かれますね(笑)」

取材の最後、「神社とか経営してみたいですよね」と、堰を切ったように神社業界の課題や新プロジェクトの構想について語ってくれた。W+K東京にいたときは、メガネのECサイトをやっているクライアントと、ゼロからブランドを作ったこともあるそうだ。「飽くなき好奇心」の片鱗を見た気がした。

先行きの読めない時代だからこそ、「退屈しないように、何でもやる」長谷川氏のスタンスが大切なように思える。「計画を立てない」。直感とめぐり合わせに身を任せることが、刺激的な環境に身を置き続けるための近道なのかもしれない。

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[文]小池真幸[編集]小山和之[写真]今井駿介

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