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デザイン読書補講 8コマ目『陰翳礼讃』

こんにちは。中村です。僕が担当する『#デザイン読書補講』の2回目となります。前回は、中村好文+神幸紀『パン屋の手紙』(筑摩書房)をあつかい、デザインはだれによって、デザインされるのか——そうした「そもそも」のことについて、つくり手たる建築家と、クライアント、そして場の関係性ついて、考えてみました。

さて今回は、少し時間をさかのぼり、昭和初期に記された書物を紹介します。しかも、デザイン関連の人が書いた文章ではありません。谷崎潤一郎『陰翳礼讃』——そう、近代日本文学を代表する人物による、エッセイです。漢字四字のタイトル、そして文豪……ということで、どこか重々しく、早速、億劫になるかもしれません。でも、少し待ってください。不思議なことに、この『陰翳礼讃』は、デザインに関わるひとびとのなかでも、脈々と読みつがれている一冊です。


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一例をあげれば、フランスの建築家 ジャン・ヌーヴェル氏がここからの影響を公言していますし、2000年前後には原研哉氏に深澤直人氏、内藤廣氏、面出薫氏ら、1950年代生まれのデザイナー・建築家たちが、各所で紹介・引用をしていました。こうした評価は、谷崎の筆がヴィジュアルイメージを喚起するものであることはもちろん、ここにある課題意識が、現在も通底するからかもしれません。さて、それはいったいなにか?——少し、読み解いてみましょう。

時代背景を少し——『陰翳礼讃』と、わたしたちの「ちかさ」

『陰翳礼讃』は1933年(昭和8年)から翌年にかけ、雑誌連載として執筆されました。これは、ちょうど、ふたつの世界大戦のあいだにあたり、明治維新からは65年が経過しています。明治から大正、そして昭和……と、開国以降すでに三時代目をむかえた頃。そしてこの執筆の10年前、1923年には関東大震災がおきています。この災害は当時の文化人にもおおきな影響をあたえました。たとえば柳宗悦は、これを期に千葉・我孫子から京都へ拠点をうつし、そこで濱田庄司を通じ、河井寛次郎と出会い、民藝運動へとつながってゆきます。谷崎もまた同じでした。震災を境に、生まれ育った東京から関西へと移り住み、そこから『痴人の愛』『卍』『春琴抄』、そして『細雪』と、代表作を執筆していきます。いずれも、不可抗力による移動ではあったものの、環境の変化によるあらたな視点を、得ていることがうかがえます。

さて、当時の関西はどのような状況だったでしょうか?——阪神間モダニズムという言葉があるように、1900年代初頭から、第二次世界大戦の頃まで、大阪と神戸を筆頭とし、関西はモダンな文化の中心にありました。おりしも当時はアール・デコ様式の隆盛期。1914年には阪急電鉄により宝塚歌劇団が創立。現在も残る大阪市中央公会堂(1918)、旧山邑家住宅(1918)、大丸心斎橋店(1922)、大阪証券取引所(1935)や、近年解体された旧 阪急梅田駅コンコース(1929)、それから村野藤吾設計による、そごう大阪店(1935)、大丸神戸店(1936)といったたてものの竣工が続きます。それらは、いずれも近代的・西洋的なものであり、第二次大戦後、東京を中心に展開されるモダニズム様式の生活空間とはまた異なる、はなやかな時代を、いまに伝えます。そこには現在想像しがちな、いわゆる「コテコテの関西」の姿はなく、優雅で洗練された先端的な都市生活をみることができます。

その風景は、なにより谷崎による『細雪』に顕著に記録されています。ちなみにデザインにおいて、モダニズムといえば、基本的には装飾要素の少ないミニマムな様式をさしますが、一方でモダンなデザインという言葉から、大正ロマン的なるものを想起される方も、一定数、いらっしゃいます。このイメージをつくる要因のひとつには、おそらく当時の関西における、こうした近代文化が影響しているのではないか?とも想像できます。

さて、本題に入る前に、少しまわり道をしました。というのも、2021年の現在、いきなり『陰翳礼讃』をよめば、反射的に「むかしのはなし」と、漠然とらえてしまい、それはともすれば近代以前の、あたかも江戸時代のような状況のなかでかかれたとも、うかつに想像してしまいかねません。明治の文明開化は、日本を急速に近代へと向かわせ、それは同時に西洋化への傾倒を意味しました。やや、荒っぽい言いかたをすれば、それは過去を切断することによる成長。執筆されたのは、そこから65年を経て、まちには近代的な西洋建築がたちならんだ頃——そう、谷崎が『陰翳礼讃』を記した頃、すでに日本の近代化はひと段落し、ひとびとは都市生活を謳歌する時代になっていました。1933年の当時の人たちの感覚は、明治以前のひとびとよりも、むしろ現在の僕たちのほうに近いかもしれません。谷崎もまた、そのひとりです。

ひかりの違い、東西の違い。

『陰翳礼讃』の特徴は、ひかりを通じて、東西の違いに気づいていく視点にあるといえるでしょう。たとえば金屏風について谷崎は、このように記しています。

諸君はまたそう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。

美術館などで金箔をもちいた屏風を、ご覧になったことがある方は、ピンときたかもしれません。ショーケースに陳列され、あたかも標本のほうに、すみずみまでくまなく照らさられ、その全体が高解像度にみえる状態は、たしかにケバケバしく、どこか悪趣味のようにさえみえてしまう。しかし、谷崎にならって、少し想像してみましょう。それが現代的な展示空間ではなく、照明器具のない、古いたてものにある状態を。みえるか、みえないか——そのくらいの曖昧な具合で、たたずむ屏風。これらは本来、そうした場のなか、培われた機能であり、表現なのです。

それは作中にあるように、能の場合も同じでしょう。もともと能は、夕暮れどきからはじまり、少しづつ陽がおちゆくなか、舞台のまわりにおかれた薪をともし、刻々とゆらぐそのあかりのもと、おこなわれていました。すべてが朦朧たる状況。だからこそ鑑賞者もまた、演じられる世界に同一化できる。しかし、近代的なステージ装置よろしく、能舞台のなかに照明器具を仕込んだいまとなっては、それは元来的な光環境にありません。主役たるシテ方はもちろん、地謡や囃子方も、いまのような見えかたになかったのではないでしょうか。

もちろん西洋においても、電気が一般化するまでは、現代的な照明装置は存在しません。西洋の場合、おおくは燈台にキャンドルをそのままともします、つまり光源が見え、照らす対象もまた明確となる直接的なひかり。たとえば、レンブラント・ファン・レインの絵画作品。暗がりのなかにいる人物たちには、スポットライトのように、ひかりがあたっています。しかし行燈や、障子にみられるように、日本の照明装置は光源を見せず、拡散するひかりを発します。直接光は、ひかりをあたえるものと、そうでないものに対象を二分化し、明快な光と闇の関係、対となる主従をうみます。一方拡散光は、対象をわけることなく、光と闇のあいだ——まさに陰影がうまれ、ひかりと影が同一化するグラデーションの状況をつくりだします。それは中心のない、主客未分のひかりです。

アンビエントな場

主客未分といえば、本書のなかでも、とくに有名な羊羹のくだりも象徴的です。

そうしてそれは、闇にまたたく蝋燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用なのである。かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない(中略)だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。

ここでは、羊羹、菓子器、室内、そしてそれを口にする人物さえも——すべてが陰影につつまれ、一体化している様子がうかがえます。個々のものが、ひとつの場として関係しながら、溶けた状態。これを見ながら思うのは、仏教学者 鈴木大拙と、モダニズムを代表する建築家・デザイナー、そして具体美術家であったマックス・ビルのいう、それぞれの環境のとらえかたの違いです。

デザインの目的は——建築であれ、ヴィジュアルデザインであれ、プロダクトデザインであれ、いずれのデザインであっても——すべて環境形成である。
マックス・ビル(向井周太郎『デザイン学 思考のコンステレーション』より )

昔は石を羊にしたり、虎に見立てたり、また説法をして肯したりしたことがあった。が、近代の人々は何も殺風景になって、石は石でしかなくなった。人間と環境との区別が、生きたものと死んで居るものということになった。それで環境は克服すべきもの、克服されるもの、何か物質的に人間に役立つべきものということになった(中略)仏教の根本義は、自分とその環境とを一つのものに見るのである。
鈴木大拙『石』

ビルが学んだバウハウスでは、基礎課程から造形、そして工房を経て、建築に集約されるという、かれらの考えるデザインの総合を、円を用いて図式化しました。同じように、ビルのとらえる環境は、人間を中心として、外界が同心円様にひろがっていく構図がみえます。ビルにとって、建築の先にあるものが、環境であったのでしょう。一方、大拙のとらえる環境は人間自身もまた、そこにふくまれるという認識です。環境という語は、EnvironmentalにAmbientと、ふたつの翻訳が存在します。環境問題はEnvironmental Issues。環境をまもることが人類の課題——というように、こうなると環境を人間からきりはなしてとらえることになる。

一方でアンビエントミュージック、つまり環境音楽の提唱者 ブライアン・イーノによれば、それは「たとえ飛行機が墜落しても鳴り続けることが可能な音楽」となります。音楽と場が切断されず、そこにあるほかの要素と同化した状態を、みていることがうかがえます。ビルのいう環境はEnvironmentalであり、大拙のものはAmbientといえるのではないでしょうか。そして、谷崎による羊羹のくだり——否、『陰翳礼讃』のすべてが、アンビエントな状態を自覚する過程ともいえます。

ここで、少し比較してみましょう。ひとつは長谷川等伯による『松林図』(1593—1595 ?)、そして、ラファエロ・サンティ『アテナイの学堂』(1509—1510)。80年ほどのタイムラグはありますが、ともに16世紀のものです。いずれも、すばらしい造形物です。注目したいのは、それが再現するリアリティのちがいです。ラファエロによる絵画は、パーステクティヴな遠近法をもちいた、空間表現がなされ、登場する人物やものすべてが、すみずみまで精緻に写実的に書き起こされています。しかし、ひとたび遠近法の中心からそれると、それを鑑賞する視点は失なわれてしまう。それは必然的に、見られる存在である絵画と、絵画を見る存在を二分することになります。

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ラファエロ・サンティ『アテナイの学堂』(1509—1510)

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長谷川等伯『松林図』(1593—1595 ?)

一方『松林図』は、そのような視点の中心は存在しません。そして、おぼろげな墨の濃淡でえがかれた、この屏風の前にたつと、その湿度や空気、温度をおぼえ、自らがその場にいるような錯覚となります。つまり、絵画と鑑賞者の関係が溶け、ひとつになる。目はおろか、肌や鼻、身体感覚のすべてが刺激され、経験を追想するかのような状態。そうしたインスタレーション的な感覚をおぼえます(このあたり写真だと、かなりわかりにくいので、東京国立博物館などで展示の機会があれば、ぜひ体験してみてください)『アテナイの学堂』と『松林図』に象徴される、異なるリアリティ。その質の違いこそが、東西の差なのかもしれません。

アプリケーションとOS 

さて、やや唐突ですが、ここでAdobe Illustratorを想像してみてください。アートボードを新規作成し、そこに文字を打ち込む。すると、そこにはサンセリフ体が横組みで、そして片流れ組みであらわれます。これがデフォルトの状態です。ではこのかたちが、なにかと考えれば、それはスイスタイポグラフィなどに代表される、20世紀におけるモダングラフィックス特有の形式です。事実、その代表格であるヨゼフ・ミュラー=ブロックマンのようなスタイルは、Adobe Illustratorでは比較的、まねしやすい。同じようにAdobe Photoshopをひらけば、レイヤーをかさね、そこにブラシで点をうち、その移動で線を描画し、それが積層することで面を表現することになります。ルネサンス時代にかかれたレオン・バティスタ・アルベルティ『絵画論』では、画面の上の、点、そこからの線、面……という趣旨の解説からはじまります。それは近代になり編まれた、ワシリー・カンディンスキーによる『点と線から面へ』にも、そのまま直結します。

ルネサンス美術と近代美術は、一見異なるものにもみえますが、実際のところ近い地域のなか培われた、脈々と続く通奏低音があるのです。しかし『松林図』のような水墨画は、紙そのものに濃淡のある墨、あるいは水が溶けた状態にあります。作品と鑑賞者の関係ばかりでなく、その素材自体もまた一体化しているのです。それは西洋造形のOSたる二元的な手法とは、根本的に異なります。

だから私の云うことは、今更不可能事を願い、愚痴をこぼすのに過ぎないのであるが、愚痴は愚痴として、とにかく我等が西洋人に比べてどのくらい損をしているかと云うことは、考えてみても差支えあるまい。つまり、一と口に云うと、西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我等の方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代りに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ歩み出すようになった(中略)蓄音器やラジオにしても、もしわれわれわれが発明したなら、もっとわれわれわれの声や音楽の特長を生かすようなものが出来たであろう。元来われわれわれの音楽は、控え目なものであり、気分本位のものであるから、レコードにしたり、拡声器で大きくしたりしたのでは、大半の魅力が失われる。話術にしてもわれわれわれの方のは声が小さく、言葉数が少く、そうして何よりも「間」が大切なのであるが、機械にかけたら「間」は完全に死んでしまう。そこでわれわれわれは、機械に迎合するように、却ってわれわれわれの藝術自体を歪めて行く。

もちろん、Adobe IllustratorやPhotoshopを否定するわけではありません。しかし、これらアプリケーションの設計思想は、いったいどこからきたのか?そして、なにを模して、なにを「標準」、つまりデフォルトとしているのか?——この点については、つくり手として把握しておいてもいいでしょう。一方で、日々テクノロジーがすすめども、風土気候はおおきく変化しません。いまでもわたしたちは、日本語をしゃべり、地域ごとの方言をもち、郷土料理はいまもなくならず、ファストフードや各国の料理と、日常のなか違和感なく共存しています。そこには人間個々の一生とは異なる、おおきな時間のサイクルが存在します。谷崎が『陰翳礼讃』でしめした視点は、個人という単位をこえ、これまで、いま、これから——そうしたおおきなスケールで、自分たちの文脈を咀嚼し、これからのOSをいかに形成してゆくのか?そうした、本来のモダニズムのありかたについて、考えさせられるものです。

ともすれば、時代にとり残された頑固者が、ただただ、むかしはよかったと、過去をふりかえり、現在をやみくもに拒否する内容とも、とらえられかねない『陰翳礼讃』。しかし、おもしろいことに「実際のところ、谷崎は近代的な住宅にすんでいた」だとか「特攻警察の目をぬすみ、終戦前夜にすきやきを食べていた」というような、まるで矛盾にもみえる、どこかほほえましいエピソードもおおく存在します。実際、谷崎がモダニストであったことは、間違いありません。それがゆえ、むしろ、ここで記された課題意識は、いまもなおリアリティをもちます。谷崎にとって『陰翳礼讃』は、「わたしたちにとっての『モダンなるもの』」を想像しながら、その根となるものを、ひとつひとつ、おのずからの経験から、つぶさに自覚してゆくプロセスであったのかもしれません。それは、デザインにおいても、きっと同じなのです。

D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?——『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』ポール・ゴーギャンによる作品タイトルを引用しながら、今回の読書補講をおえます。デザインを志すみなさんのヒントになれば幸いです。それでは次回もまた、よろしくお願いします。

中村将大(なかむら・まさひろ)
おもにヴィジュアルコミュニケーションを中心としたデザイン教育、デザインワークに従事。帝京平成大学 助教。1983年 福岡生まれ。2009年から2021年3月まで東洋美術学校専任講師。前職では授業のほか、デザイン教育プログラム設計、産学連携業務なども担当。2021年4月より現職。

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