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「なめらか」ではなく「ぎこちない」デザインを——書評『クリティカル・デザインとはなにか?』

ここまで「デザイン」という言葉が注目された時代は、ひょっとするとこれまでなかったかもしれない。

書店にいけば、“デザイン関連書籍”以外でも各所で「デザイン」の文字を見つけられる。「デザイン思考」のおかげもあり、一般的なビジネスパーソンも多かれ少なかれ、「デザイン」という言葉を意識するようになった。

だが「クリティカル・デザイン」は、昨今のデザインにおける隆盛とはまったく別のアプローチをとる。それは文字通り、対象に対してクリティカル(批評的になる)ためのデザインだ。

「デザイン思考」はデザインを課題解決の手法として捉えるが、デザインにできるのは、“解決”だけではない。問いそのものを生み出し、思考を促すことも、デザインの領域になりうる。デザイナーが関わるべき領域は、まだまだ無数に残っていると感じさせる。

「クリティカル・デザイン」とは

クリティカル・デザインにおける関心事は、創造性、問いかけ、そして提言であり、実際に寄せられたニーズに応えて技術や社会の革新を行うことではない。 (p.165)

本書『クリティカル・デザインとはなにか? 問いと物語を構築するためのデザイン理論入門』はタイトル通り、「クリティカル・デザイン」について語ったものである。とは言ってもクリティカル・デザインという言葉は、日本においてあまり浸透したものではない。「クリティカル・デザインとはなんぞ?」という方も、ひょっとすると結構いるのではないか。

なのでこの書評は、「クリティカル・デザインって響きはおもしろそうだけど、どういうものなのかはよくわからない」「新しいデザインのあり方を探している」という方のために捧げたい。

もしあなたが、すでにクリティカル・デザインについて聞いたことがあり、その概要もわかっているというのなら、この書評は無視して、そのまま本書をお読みいただければと思う。クリティカル・デザインの歴史や理論、実践や批判について、深く理解できるようになるはずだ。また、日本語版付録である日本人識者たちの対談も興味深い。日本におけるクリティカル・デザインの現在地や展望について、一定のリアリティをもって理解できる。

クリティカル・デザインはその性質上、全体像を理解するのがかなり難しい。本書にあるように、「分野に囚われた考え方に異を唱えて変化を生じさせ、そしてデザインの働きを拡張するという価値をもたらす」(p.34)ことがクリティカル・デザインの真骨頂なのだが、つまりそれは「このようなやり方をすれば、クリティカル・デザインになる」というわかりやすい公式が存在しないということでもある。

クリティカル・デザインの表現形態は、文脈によっていくらでも変わる。だからひとつのクリティカル・デザインを理解するということは、そのデザインが成立した背景や文脈を理解することと同義であり、かなりの労力を要する。日本でクリティカル・デザインがあまり話題にならない要因のひとつも、そこにあるかもしれない。

それでも僕はクリティカル・デザインが、重要な概念であり実践になるのではと感じており、とりわけデザイナーにとって少しでも身近な概念となってほしいと願っている。だからクリティカル・デザインを理解するにあたって、ひとつ補助線を引きたい。キーワードは「なめらかさ」だ。一般的なデザインが世界を「なめらか」にすることを志向するのだとすれば、クリティカル・デザインはその逆である。摩擦係数を上げて、相手を立ち止まらせ、思いを巡らせるのだ。

世界は「なめらか」になっている

わたしたちの世界は、どんどん「なめらか」になりつつある。そしてその勢いは、ますます加速している。

身の回りのものを見たとき、その目的がわからないものはもはやほとんどない。たとえば、椅子が「座る」ためにあるのは自明だ。そして「座る」という行為は、食事をしたりパソコンをしたり、あるいはちょっとした休憩をしたりするのに適している。椅子というプロダクトは「座る」という行為を誘発し、食事や作業といった行為を円滑に進める。

だから一般的に言って、その目的をより達成しやすい椅子であるほど評価が高い。食事をするときは料理としっかりと向き合える椅子が、パソコンをするときは長時間座っていても疲れにくい椅子が、それぞれ好まれる。

椅子に限らずあらゆるものは、その目的をスムーズに達成させるべく最適化されてきた。ペンはより書きやすく、カップはより持ちやすく、ベッドはより快適に。目的に最適化されたプロダクトは、もはやあまりにもわたしたちの生活に馴染んでしまい、そこに違和感を持つことはほとんどない。

これはハードウェアだけではなく、ソフトウェアについても同じだ。スマートフォンを手にして、なにかのアプリを起動すれば、そこにはやるべきことや見るべき世界が広がっている。インスタグラムやツイッターを開くということは、誰かの投稿した写真や文章を読みたい、自分の写真や文章を読んでほしいという欲求そのものだ。

これらのアプリは、そうした欲求を満たすために存在する。だから「あ、Instagramを見よう」「Twitterを開こう」と思い立ち、アプリを開いたとき、他人の投稿が見にくかったり、自分が投稿しにくかったら、それは改善の対象だ。

このようにアプリは、ユーザーの欲求をよどみなく達成・解消することを目的に設計される。使っていて不自由を感じにくい、いわば摩擦係数が低くてなめらかなプロダクトが志向されるというわけだ。

それがスムーズに行動を誘発するものであればあるほど、わたしたちはそれに没頭する。「ぎこちない」ものを排除することで、わたしたちはそのプロダクト/サービスが生み出す世界観に没入するのだ。

途中でユーザーが逡巡してしまったり、違和感をもってしまったり、ましてや行動を止めてしまったりするようなものは、なんであれ改善するべき対象となる。なめらかさが正義であり、ぎこちなさは悪であるかのように。

犯人はあなたである

この「なめらかさ」を追求する潮流を生み出しているのは誰だろうか? 他でもない、あなたである。デザイナーであるあなたこそが、「なめらか」な世界をつくりつづける犯人だ。デザイナーは、人々の欲求や関心を惹起させ、特定の行動を誘引し、そのプロダクト/サービスの価値観・世界観を伝える。UIやUXという言葉がこれほど流行っているのは、「デザインを通して、人々の行動や関心に働きかけることは可能である」というコンセンサスが形成されている証拠にほかならない。

そう考えると、昨今さまざまな種類の「デザイナー」が生まれているのも不思議なことではない。かつて日本では、デザイナーは単にプロダクトの「見た目」に働きかけるのが仕事だと思われていた。だがいまや、デザイナーに求められる役割は膨大であると多くの人が了解している。

デザイナーは、人間がどう感じ、どう動くのかを捉えようとする生き物だ。そしてデザインを通して、人間の思考や行動、習慣に働きかけようとする。ならば人間の思考や行動、習慣に介入するものは、なんであれデザイナーと呼ベるのではないか? ということで実際、今さまざまな種類の「デザイナー」が生まれている。「コミュニティデザイナー」などはその端的な例だ。そのプロダクト/サービスが本質的に何を届けたいのか考え、いかにそれをスムーズに達成できるのかを検討し、有形無形問わず実装する。そうすることでデザイナーは、ユーザーの行動を、規範を、思考を変えるのである。

デザイナーの役割は、今後もさらに拡張し続けるだろう。プロダクトに限らず、あらゆる領域で問題を発見し、解決し、世界をなめらかにしていくに違いない。だがここでひとつの疑念が立ち上がる。デザインが物事をなめらかにすればするほど、人々はその裏にある思想や世界観に疑問をもてなくなるのではないか? デザインによって自然と行動が誘発され、その行動が習慣化してしまえば、それはもはやあなたという存在を形作る一部になってしまう。

そのプロダクトやサービスの背景にある思想や価値観を、本当に受け入れるべきなのか? そのように問いかけたとき、クリティカル・デザインの出番がやってくる。クリティカル・デザインは、世界をなめらかにする企みを暴露し、違和感を抱かせ、立ち止まることを要求し、「対話」を試みるのだ。

なめらかな世界に「ぎこちなさ」を与えよ

「クリティカル・デザイン」は、ユーザーにジレンマを経験させ、解釈の負担を押し付ける(p.200)。一般的なデザインが「なめからさ」を希求するのだとしたら、クリティカル・デザインは「ぎこちなさ」を与えるためのデザインだといってもいいだろう。その言葉通り、プロダクトやサービスに対して、クリティカル(批評的になる)なるために存在するデザインだ。

「研究の手段としてのクリティカル・デザインは、答えることよりも多くの問いかけをすることを目的としている」(p.34)

こう聞くと、アートに関心がある読者のなかには「ちょっと待てよ、それってアートと何が違うんだ?」と思われた方もいるかもしれない。そしてその疑問はもっともだ。とりわけ現代アートの機能のひとつは、現代社会・文明のあり方に疑問を投げかけることだからである。であるならば、クリティカル・デザインとアートは何が異なるのだろうか?

本書の著者は、クリティカル・デザインとアートを――その手法やアプローチの多くをアートから転用していることは認めつつ――別のものとして捉え、次のように論じる。人々は現代アートにある種の非日常性を期待するが、クリティカル・デザインはむしろ日常的なプロダクト/サービスを通して疑問を投げかける。そうすることによって、人々が前提としている考え方や習慣に関して再考を促すのだ。

すなわちクリティカル・デザインが行うのは、日常的なプロダクトの背後にある価値観や世界観への問いかけである。一般的にすぐれたデザインは、そのプロダクト/サービスを使いたい気持ちにさせ、その背景にある価値観・世界観を促進させ、実際に寄せられたニーズに応える。だがクリティカル・デザインが企むのはその逆。対象との摩擦係数を高め、その前提となっている価値観や世界観を疑うように仕向けるのである。

世界観を揺るがすデザインをつくるために

興味深いことに、本書はデザインにおける「批評的実践」を、「アソシエイティヴ・デザイン」、「スペキュラティヴ・デザイン」、「クリティカル・デザイン」の3つに分類している。本書の著者は、なかでもクリティカル・デザインに期待を寄せているようだが、いずれにしても批評を引き起こすために風刺や合理性を用いるという点で、この3つは共通した特徴を持っている。

批評的実践について興味をもつ方であれば、どの手法からも学ぶことは多いだろう。とくにスペキュラティヴ・デザインについては、最近日本でも耳にする機会が増えてきたように思うので(『WIRED』読者であれば特に)、チェックしても損はない。

「アソシエイティヴ・デザインは平凡で日常的なプロダクトデザインに対する期待を裏切り、[本来起こるはずの]インタラクションを破壊することで作用する。物との慣習的な関係性やその理解を転倒させること、そして物とそれが使用される文脈を破壊することで機能する。[...]アソシエイティヴ・デザインは、つまるところ馴染みのある物を奇妙な物にする」(pp.173-4)
「スペキュラティヴ・デザインは本来、シナリオ構築、技術科学研究と結びついている。科学技術の進歩に対する問いかけがスペキュレイティヴ・デザインの特徴であり、その目的は、研究室内で行われる活動の文脈や応用範囲を広げ、それを日常の文脈で見せることである」(p.187)
「クリティカル・デザインでは、ユーザーがジレンマを経験し、解釈の負担を負うことが不可欠である。意図とは、デザイナーのメッセージを伝えるために、観衆の想像力と知性を関与させることである。クリティカル・デザインの作例は多くの場合、架空のシナリオを描いているが、ときにはヘゲモニーに挑むために破壊を伴うメカニズムとして利用され、抑圧や不平等に関する事柄に直接的に介入する」(p.200)

これらはいずれも、従来のプロダクト/インダストリアル・デザインの領域に欠けていたものを提示し、「なめらか」であろうとする世界に挑戦状を叩きつける。それは社会のフレームワークを揺るがす企みともいえる。デザイナーにできるのは、問題を解決し、世界をなめらかにするだけではない。問いを生み出し、なめらかになっていく世界にブレーキをかけ、思考を促すことだって可能だ。デザイナーがやるべき仕事は、まだまだ無数に残っている。そう直感させてくれる一冊である。

[文]石渡翔
国際基督教大学卒業。株式会社フライヤーにて、書籍の要約の作成・編集から、ブックコミュニティの企画・運営まで、コンテンツディレクターという立場から多方面に携わる。現在は「フライヤー研究所」の所長として、学習デザインに関する知の集積・企画に従事。また、旅する高校 インフィニティ国際学院では、「旅する図書館」館長を務める。


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