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成功する「協働」と失敗する「協働」は何が違うのか?——書評『コ・デザイン』

「デザイン」という言葉は、一般的に見て敷居が高く感じられるものらしい。曰く、デザイナーといえばクリエイティブな存在であり、センスが良くなければなることができない−−そういう認識を持つ人は、いまだに少なくない。

たしかに、特別な才能に恵まれた(かのように見える)スターデザイナーがいるのは間違いない。その一方で、デザインという言葉がさまざまな文脈で用いられるようになり、デザイナーが関わる領域も増えつつある今、デザインは一部の人だけが専有するものではなく、全員が関わるものになりつつある。

デザイナーの役割も、一人だけですべてをつくりあげる「プレイヤー」から、多くの人たちのアイデアをうまくつなぎ合わせて化学反応を引き出していく「パートナー」へ、徐々に変わっていくだろう。言うならば、関わる人々の創造性を解放し、自身もまた創造性を発揮することで、それぞれのアイデアを紡ぎ合わせていく−−そんな役割を求められていくに違いない。

本書いわく、デザインとはそもそも社会の人びとのかかわりあいの中にある生きた活動を指していた(p.46)。ならばデザイナーの仕事とは、そもそもそのコミュニティに、社会に、あるいは世界に語りかけることなのかもしれない。

創造性の本質は、人に頼まれていない「ひと仕事」にある

あなたは、どのくらい人に頼まれない「ひと仕事」をしていますか。もちろん仕事の大きさではなく、態度・姿勢の問題です。思い当たることを探していけば、たしかに、自分が「先に」することは自分のコミュニティに何か貢献することであり、創造的なことだ、と改めて気づかされるのではないでしょうか。(pp.296-7)

創造性が生まれる状況について、著者の上平さんは、「人に頼まれていない『ひと仕事』」をしたときだと指摘している。デザインの場に限らず、あらゆる状況において、そもそも自分が好き勝手にできる範囲は限られている。そこには定められたフォーマットや、長年培われてきた慣習があり、ほとんどの場合はそれらをなぞらなければならない。その上で、誰にも頼まれていないものを、遊び心やプロフェッショナリズムを発揮して、上乗せする。自由を発揮できる余地を探りだし、そこに自らの色を乗せたとき、創造性は発揮される。

近年、日本の文化が世界的にも注目を集めている。日本はずいぶんと「クリエイティブな国」として扱われるようになったし、少なくとも自分たちをそう認識するようになった。その一方で、クリエイティブだと見なされる領域は相変わらずマンガやアニメなど、一部の領域に限られているように思う。たとえば政治とクリエイティビティは、ほとんどの場合結びつかない。日常生活においても同様だろう。

でも本当は、クリエイティビティはあらゆる場所で、万人が発揮できるもののはずだ。自分の意志に基づき、誰にも求められていないなんらかの「ひと仕事」を加えるとき、そこにはまちがいなく自由で創造的な世界が広がっている。

「コ・デザイン」は、あらゆる場面であらゆる人々が、こうしたクリエイティビティを発揮するための提案だと私は受け取った。だが、誰もが自分から「ひと仕事」をしたくなるような環境を、どのようにデザインするべきなのか?

結局手を動かさなければ、人は「協働」できない

コ・デザインでは、人びとをただつかう「ユーザー」ではなく、デザインの「パートナー」としてとらえます。(p.102)

あらためて言うまでもなく、人は社会的な動物である。ずいぶんとインフラやテクノロジーが発達したとはいえ、依然として生きるためには他人のちからを借りなければならないし、そもそも普段当たり前のように享受しているインフラやテクノロジーも、人が「協働」してつくりあげたものである。シンプルなタスクであれば一人でも解決可能かもしれない。しかし問題が複雑になればなるほど、一人の人間では解決できなくなってくる。ましてや明確な答えが存在しない厄介な問題であれば、なおさらだ。ひどく入り組んだ問題に取り組むうえでは、絶対的に他人の協力が必要になってくる。

ところが現実を見ると、そうした「協働」の多くは失敗に終わっている。立ち向かうべき問題が大きいとき、私たちは抽象的に物事を捉えることで全体像を俯瞰し、それを具体的な行動に落としていくのだが、抽象と具体は往々にして離れすぎてしまう。その結果、どちらかひとつの領域にしか携わらないということが頻発する。大局を見据えていると現場が見えなくなり、現場で動く人間には大局が見えなくなる。

クリエイティビティが、いわゆる「下流」の工程でなかなか発揮されないのは、こうした構造によるものである。「上流」から流れてくる注文に対して、自分なりの色を発揮しようにも、全体像がつかめていないから、何を足していいのかが見えてこない。

向き合うべき問題が単純であれば、これでもいいのかもしれない。しかし複雑だったり厄介な問題の場合、「上流」にいる一部の人間だけが考えるだけでは太刀打ちできない。なぜなら問題とは複雑になればなるほど、すばやくその姿を変えるものだからである。どこに勘所があるのかを見極めるには、やはり「下流」に下りてくるしかない。

こうした「上流」と「下流」の往復運動、すなわち抽象と具体の往復運動こそ、複雑化した問題、厄介な問題に立ち向かうためには絶対的に必要だ。そしてそれは、やはり一人でやるのではなく、できるかぎり多くの人でやるべきである。いくつもの視点があるからこそ、そこに共創が生まれるからである。

結局のところ、手を動かしてなにかをデザインしていかなければ、納得感のあるものは生まれない。そして複雑な問題に対処するためには、そこに多様な人間が関わらなければならない。これはじつに自然なことだが、現代社会においてはしばしば見逃されている。

本書における「コ・デザイン」というコンセプトは、この私たちが忘れかけている事実を、あらためて思い出させてくれる。現実的に考えれば、全員が「上流」と「下流」、抽象と具体を体験するのは難しい。しかしデザインという領域は、リサーチとプロトタイピングをイテレーションさせることで、なかば仮想的に抽象と具体の往復運動を成し遂げる、希少な文化を築いている。

これにより、「上流」しか見えていなかったものは手を動かすことを通じて、「下流」しか見えていなかったものは傾聴や対話を通じて、より立体的に世界を捉えられるようになる。

なによりも重要なことに、立体的な視点をもったもの同士の会話は、足並みも目線も揃っているものだ。こうして自分が歩むべき道筋も、そこから広がる景色も見えるようになったとき、ようやく、もう「ひと仕事」をするだけの余白が生まれ、その人の持つクリエイティビティが発露されていく。それはひとつのエコシステムだ。

複雑な問題であればあるほど、厄介な問題であればあるほど、デザイン思考を発揮することは難しい。しかしだからこそ、その意義も大きい。たとえば政治の世界において、こうしたエコシステムが生まれたとき、社会はどうなるだろう? 

コ・デザインにおけるデザイナーの役割は、人々の持つ多様な専門性をオリジナルな視点でつなぎ、長所を引き出していく専門家になると言えます。(p.153)

本書の射程は、一般的に「デザインが扱うもの」とされる領域を飛び越え、はるかその先、私たちの社会や国家、あるいは世界にまで届きうるものである。その役割を担うポテンシャルが、デザインに携わる人間にはある。心からそう予感させてくれる一冊だ。

[文]石渡翔
国際基督教大学卒業。株式会社フライヤーにて、書籍の要約の作成・編集から、ブックコミュニティの企画・運営まで、コンテンツディレクターという立場から多方面に携わる。現在は「フライヤー研究所」の所長として、学習デザインに関する知の集積・企画に従事。また、旅する高校 インフィニティ国際学院では、「旅する図書館」館長を務める。