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デザインで環境を「脱構築」する——書評『マイノリティデザイン』

「弱さ」は不可避だ。どうがんばってニュートラルになろうとしたところで、人は無色透明になり続けることができない。何かを選択すれば、「強者」の立ち位置につくのか、あるいは「弱者」の側につくのかが、半ば自動的に決まる。そしてその図式を崩すことは難しく、それぞれの立場から「弱さ」と向き合うことになる。

マジョリティ(多数派)とマイノリティ(少数派)の関係も、この「強者」と「弱者」という図式とパラレルにあることが多い。なぜマジョリティは「強い」と見なされ、マイノリティは「弱い」ものとして扱われるのか? あまりにも当たり前の話で恐縮だが、数は「力」だからである。数が多いというのは、それだけで「強い」。

マジョリティに属するとき、人は往々にしてそこにあるはずの「弱さ」を見つめない。なぜならマジョリティは、その環境を肯定するものだからである。さらにいえばマジョリティに属するとき、人は往々にして自分たちを「強い」とすら見なさない。なぜならマジョリティは、環境と半ば一体化しているからである。荒波は、荒波に抗うことを考えないのだ。

マイノリティで生きるということは、その荒波を受ける側に立つことを意味する。迫りくる波を前にして、流されないように踏ん張るのか、潜ってやり過ごすのか、はたまた波を乗りこなそうとするのかは、その時々の状況によって決まるだろうが、いずれにせよ難題に直面する。ときには転んだり溺れてしまったりするかもしれない。

そのような状況に対して、あらためて問いたい。デザインにできることは何か? 「強さ」から「弱さ」を守ることも、「強さ」を解体することもひとつの手段だ。だが本書『マイノリティデザイン』は、別の解決策を提示する。それは現状の「弱さ」を「弱さ」たらしめている現状を捉え直し、あらたな環境——本書の言葉でいえば「生態系」——をデザインすることである。

するべきは特別扱いではなく、エンパワーメント

「だれかを特別扱いしてハンデを用意する」という考え方は、マジョリティの社会からの目線にしかすぎない。(p.191)

マジョリティとマイノリティの関係がしばしば歪になるのは、そこに力の不均衡が生じるからだ。しかしその差を是正しようとするのは簡単ではない。「マジョリティにハンデを課す」という対応は、両者のパワーバランスを整えるという目的からすると、一見合理的に思えるが、どちらの立場にとっても不公平感は生じうる。

一方で本書の提案する「マイノリティデザイン」は、必ずしもハンデを意味しない。そもそも著者の澤田智洋氏がこのコンセプトを考えたきっかけは、生まれてきた子どもの目に障害があったことだった。その障害を目の当たりにした澤田氏は当初ひどく動揺しつつも、やがてひとつの確信にいたる。マイノリティ性は、克服するためにあるのではなく、むしろ生かすためにあるはずだ、と(p.12)。

だから「マイノリティデザイン」として紹介される活動は、どれもマイノリティをエンパワーすることが基本設計として組み込まれている。それはブラインドサッカーへの関わりにはじまり、義足をファッションとして捉えた企画「切断ヴィーナスショー」、障害のある「ひとり」の人間に向けたファッションプロジェクト「041」といったかたちで結実している。それぞれの具体的なコンセプトや活動については、ぜひ本書を手にとってご覧いただければと思う。

また、澤田氏の考える「マイノリティ」は、障害の有無や人種の違いに限らない。能力の高低や年齢の違いなど、それぞれの文脈で「弱者」として扱われる、あらゆるものを包含する概念である。たとえば澤田氏が会長を務める「世界ゆるスポーツ協会」は、誰もが楽しめる新しいスポーツの開発を目的とした団体だが、もともとは澤田氏がスポーツを苦手としていたことから着想されたものだという。ここでも、特定の人物に対して特別ルールを適応することでゲームを成り立たせようとするのではなく、あくまで全員が同じ土俵に立って楽しむという意志がはっきり表れている。

インクルージョンとは新たな世界の創造である

このように、本書で提唱されるマイノリティデザインは、既存の「弱さ」をただ守るものではないし、「強さ」を弱らせるものでもない。「弱さ」や「強さ」を規定していた環境、そもそもの土台を捉え直したところに、その真価がある。トランプの「大富豪」のルールに例えるならば、澤田氏の狙いは「革命」(強さの序列が逆転すること)を起こすことではなく、別のゲームで遊び始めることである。そしてそれは、もともとのルールでは楽しみを見いだせなかったり、やりづらさを感じていたりする人も、積極的に関わっていきたくなるようなものだ。最近、日本でも「ダイバーシティ」とともに、「インクルージョン(包含)」という言葉が市民権を得てきたが、澤田氏のデザイン観は、まさにその精神をあらわしていると言える。

またマイノリティデザインは、それまで当然とされていた社会の尺度がかならずしも絶対的でないことを伝えるうえでも、きわめて重要な試みである。私たちの社会において当然と見なされていたり、美点として捉えられている価値観の多くは、実のところ社会的な「構築物」である。ところが日常生活において、このことはなかなか意識されない。すると必然的に、既存の価値観に従って、それぞれの間に序列が生まれ、その図式が硬直していく。そしてそこにある価値観こそが絶対視され、もはや「構築」されたものとは思えなくなる。

とはいえ永遠に続く構築物は、有形無形を問わず存在しない。いかに堅牢につくられた建築物や価値観であっても、滅びることは歴史上何度もあった。その変化は、ときに革命という形をとったのかもしれないし、侃々諤々の議論を踏まえたうえでのスクラップ&ビルドだったかもしれない。

だが社会の価値観を変える方法は他にもある。いま環境を支配しているルールを捉え直し、その絶対性を解体すること。マイノリティデザインは、そうした実践のひとつのあり方であり、きわめて「脱構築」的な試みとも言える。既存の生態系に存在する序列に対して、別の生態系を提示するという手法は、ややもするとさりげなく、その背景にある主張は強く意識されないかもしれない。だがそれは確実に、私たちの持つ前提を疑わせ、あらたな世界観の訪れを予感させるのだ。

[文]石渡翔
国際基督教大学卒業。株式会社フライヤーにて、書籍の要約の作成・編集から、ブックコミュニティの企画・運営まで、コンテンツディレクターという立場から多方面に携わる。現在は「フライヤー研究所」の所長として、学習デザインに関する知の集積・企画に従事。また、旅する高校 インフィニティ国際学院では、「旅する図書館」館長を務める。