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デザインに、ゲーミフィケーションを超えた「遊び」を実装せよ——書評『プレイ・マターズ』

デザイナーが遊びに関する本、それも哲学書をわざわざ読む意味はどこにあるのだろうか?

ある種のデザインが、遊びと密接に関わっているのは事実だ。ビデオゲームやボードゲーム、おもちゃや遊び場、それからユーザーインターフェイス、インタラクションデザインまで、遊びと関わるデザイナーの仕事は実際のところ多い。

とはいえ、その「哲学書」——実務で役に立たないことでよく知られている——まで読むというのは、ただの衒学趣味な気もしてくる。そもそもデザイナーだからといって、ゲームやおもちゃといったものに関わらない人だって多いだろう。

しかし、たとえそうだとしても、デザイナーが本書『プレイ・マターズ』を読み、遊びについて考える意味は大きいと私は思う。というのも本書における遊びとは、「世界とどう対峙するか」というきわめて実存的かつ本質的な話で、それはこれからの時代のデザインをつくるうえでも、とても重要なことだからだ。

デザインと遊びの奇妙な関係

現代社会ほど遊びの価値が社会的に高い時代は、おそらくこれまで存在しなかった。これはなにも、エンターテインメント領域だけに限った話ではない。

「とりあえず使えればよい」とする素朴な機能主義の時代は終わりを告げ、いま私たちは「いかに感覚と感情に訴えかけるか」というポスト機能主義の時代に突入した。そうしたなか、感覚と感情へダイレクトに訴えかけるものとしての遊びが、かつてないほど重要性を持ちはじめている。

「インタラクションデザインであれ、パフォーマンスアートであれ、ゲームデザインであれ、遊びを作り出す(あるいは遊び心を引き出す)活動は、徐々に知的な仕事に変わりつつある」(p.134)

実際、遊びに関わる行為の文化的な地位は、いちじるしく高まってきている。たとえば遊びの一形態であるゲームを評して、「これからの文化の中心になる」と指摘する論者も珍しくない。

翻って、デザインにおける遊びはどのような位置づけか。一見すると、デザインと遊びの相性はけっして悪くないように思える。前述したように、遊びのプロダクトには多くのデザイナーが関わっているし、UIやUXのデザインではゲーミフィケーションの要素を多かれ少なかれ含むこともある。「デザイナーといえば遊び心にあふれた人間である」というステレオタイプだって、(デザイナー当人がどう思うにせよ)かなり一般的なものだ。直接的に遊びに関わらないデザインにも、「遊び心が感じられる」と言われるものはたくさんある。

しかし現代ゲームスタディーズの第一人者であり、本書『プレイ・マターズ』の著者であるシカールは、デザインは遊びに近いようでいて、じつは遠い存在だと指摘する。現在のデザインにおいては、ごく限られた領域でしか遊びが許されていないというのがシカールの主張だ。

わたしたちの社会は、たしかに遊びと創造性にポジティブな価値を与えている。しかし、労働と[個人的な]表現のあいだ、あるいは機能と感情のあいだには、それでもまだ緊張関係がある。デザインにおける機能主義的な伝統は、効率と生産性を重視してきた。(p.57)
デザインの領域には、遊び心を意図的に避けようとする伝統があるように思える。そこでは、それを流用しようという気持ちを引き起こさないように物がデザインされる。アップルコンピュータ——コンピュータ回りのデザインにおいて率先して遊び心を発揮しているあのアップルコンピュータ——ですら、問題なさそうな特定のタイプの遊び心だけを許容するように入念に設計されている。アップル製品は、そのほかの大半の工業製品と同じく、遊びの小道具であるよりもまず道具であり、[ユーザーと一緒に遊ぶ]プレイヤーというよりは、[ユーザーを制約する]審判としての性格が強い。(p.58)

シカールが指摘するように、デザインにはじつのところ遊びの余地があまりないのだろうか。もしそうなのだとしたら、遊び心あるデザインはどのように可能なのか。というか、デザインに遊びが必要なのだろうか。

こうした問いについて考える前に、そもそも遊びとは何なのかについて、シカールの考えを見てみよう。

遊びがなければ、あなたは世界を失う

遊びに関して、はじめて学術的に考察したのはオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガとされている。ホイジンガは有名な『ホモ・ルーデンス』(=遊ぶ人)という本のなかで、「人類が育んだあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれた」と主張し、遊びを「疑念の余地のないルールによってひとつの別世界を作り出す公正な争い」だと見なした。この考えは遊びを語る上で、いまでもしばしば参照されている。

だがシカールは、このホイジンガの遊び論を、時代遅れのものと一蹴する。そしてこう述べる。

「わたしがここで提唱している遊びの本性は、ホイジンガのそれとは異なっている。わたしは、遊びを、現実の仕事、儀式やスポーツと対置するつもりはない。というのも、遊びはそうしたものすべてに見いだせるものだからだ。遊びは、言語、思想、信仰、理性、神話などと同じように、世界のうちに存在するモードの一種である」(p.16)

シカールの主張によれば、遊びと「遊びでないもの」が存在するのではない。それはカテゴリーの名前でもゲームのことでもない。遊びとは、私たちの物事に向き合う固有の態度であり、私たちの実存そのものだ。もちろん、社会的に遊びと捉えられているモノとそうではないモノはある。しかしたとえ遊びに見えないものであっても、遊び心を発揮することで、それは新たな遊びへと変わる。もともとあった文脈を乗っ取り、自分の遊び場にしてしまうこと。それこそが遊びの本質というわけだ。

私たちが遊びを求めるのは、それが「世界をコントロールしている」という感覚を与えるからである。誰かに指示されたものに従うことは、「世界にコントロールされている」ことにほかならない。だがたとえ誰かに与えられた仕事であっても、それを一種の遊びと捉え戯れることで、私たちは世界を取り戻せる。

シカールには、遊びの態度を持たなければ、世界をコントロールしている感覚が失われるという、切迫感にも似た感覚がある。だからこそ私たちは遊び心をもって、あらゆる事象を遊びへと変換していかなければならないというわけだ。そうしなければ、世界が自分ではない者にコントロールされ、私たちの創造性は抑圧されてしまう。そしてそれは、デザインにおいても同様なのである。

「遊びは、わたしたちに世界を与える。そして、わたしたちは、遊びを通して世界を自分のものにする」(p.160)

デザイナーよ、建築家たれ

デザインに遊びが必要な理由は、ある意味で少し皮肉めいている。デザインは一般的に遊びと相性のよい職能とされており、そこではあたかも自然と遊び心が発揮されるようにみなされている。しかし実のところ、デザインは非常にシステム的であり、むしろデザイナーは遊び心が失われやすい環境にいるとシカールは提起する。

遊び心のあるデザインは、二重の意味で個人的なものだ。それはユーザーが流用する対象であると同時に、デザイナーが自分自身のものの見方をそこに投影する対象でもあるからだ。そこでデザイナーが行なうのは、たんにその物の機能を承認するといったことではない。もっと挑戦的なことだ。デザイナーは、その機能[それをどう使うのか]について意見するのである。この二重の個人性のはざまで、遊び心は物を流用する力を発揮する。そしてそこでは、物は製品ではなく表現になる。(p.59-60)

だからこそ「遊び心のあるデザイン」を手掛けることは、なによりもまずデザイナーのために重要になる。効率と生産性だけを追い求めるのではなく、見つけた余白のなかに自分の考えを表現する。そうすることで、デザインのなかに自分の遊び場を確保し、世界を自分のものとするのだ。

そして、そのデザインに触れたユーザーもまた、自らの世界をそこに見出す。「すぐれたデザインは、ユーザーの行動を狙い通りに誘導する」というのが現代における一般的な感覚だが、シカールの考えるすぐれたデザインとは、むしろユーザーに多大な解釈の余地を与えるものである。

デザイナーの顔が見えると同時に、ユーザーが解釈できる余地のあるデザイン。それを突き詰めることは、とりわけ現代社会の潮流を考えたとき、2つの点で重要になる。

1つは、個人の持つプレゼンスがますます高まっていることだ。「モノ」が飽和する時代において、人々が欲するのは「意味」であり、「それでなければならない」という必然性である。表現を介してデザイナーの顔が見えることは、そのものに特別な意味を与える。

もう1つは、現代人は「意味」だけではなく「コト」、体験も強く求めていることだ。デザインの中に、ユーザーが解釈したり、別の文脈に流用したりするための「遊び」(=余白)を残す。するとそれは単なる「モノ」から「コト」に変わる。与えられた機能に従うのではなく、そこから別の意味を紡ぎ出すという体験を通じて、私たちはそれを自分の世界のものにする。

遊び心のあるテクノロジーは、流用しやすいようにデザインされ、遊び心をけしかけることを意図して作られる。そうした物にも、なんらかの目的や機能がある。しかし、その目的は、遊び心のあるやり方で、つまり個人的で流用的で回りくどいやり方で達成される。遊び心のあるデザインは、[遊び以外の目的があるという意味で]おもちゃや純粋な遊び道具ではない。しかし、そうしたデザインに対するユーザーの[遊び心ある]ふるまいと態度が、それらが適用される文脈を再定義するという仕方で、遊びの特性を引き出すのである。(p.60)

無論、それぞれのデザインには目的があり機能があり役割がある。それでもさまざまな制約のなかで、遊び心を発揮して自らの世界を提示し、同時に相手が遊ぶための余白もつくる。没個性にならず、さりとて独りよがりにもならない、デザイナーとユーザーの対話のようなデザイン——それこそ本書が定義する、デザインと遊びの理想形ではないか。

本書のなかで、シカールは「デザインから建築へ」と唱えた。自分と相手の「遊び場」をつくりあげようとする所作は、まさしく建築と呼ぶにふさわしい。そしてそれは既存のデザインを通して産業化・画一化された私たちが、人間性と創造性を取り戻すための試みであるように思えるのだ。

[文]石渡翔
国際基督教大学卒業。株式会社フライヤーにて、書籍の要約の作成・編集から、ブックコミュニティの企画・運営まで、コンテンツディレクターという立場から多方面に携わる。現在は「フライヤー研究所」の所長として、学習デザインに関する知の集積・企画に従事。また、旅する高校 インフィニティ国際学院では、「旅する図書館」館長を務める。


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